熊野三山を巡る 『那智山 青岸渡寺』

以前掲載した「那智山参拝 熊野古道 大門坂から熊野那智大社
熊野那智大社の鳥居の手前で参道は二手に別れ右に向かうと「青岸渡寺」の仁王門へ続きます。
青岸渡寺」へは敢えて仁王門の石段を上ることなく、熊野那智大社境内の東門と繋がっていて容易に本堂に向かう事が出来ます。
それもどうなの、という事で一旦かみさんと別行動、一旦熊野那智大社一ノ鳥居まで戻り仁王門から訪れる事にした。

f:id:owari-nagoya55:20210524165904j:plain青岸渡寺仁王門

f:id:owari-nagoya55:20210524165921j:plain那智山青岸渡寺石標。西国三十三所巡礼の一番札所。二人とも過去にこの地を訪れながら、巡拝をはじめたかみさんが今だ御朱印を頂けていない、念願とも言える一番札所。​​

f:id:owari-nagoya55:20210524165941j:plain御詠歌碑
「補陀洛や岸うつ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬」
那智の語源は梵語から由来し、音訳は那堤・難地と訳す様で、大いなる川をさし大滝を意味するようです。
那智の滝熊野川、ゴトビキ岩など自然そのものが象徴、熊野三山を参詣してみると音訳の難地が合っている事を実感します。
仁徳天皇御代に裸行上人がこの地に観音像を祀り開基したことから始まり、以降、多くの高僧が参籠した霊場で往時は7寺36坊を有したという。

f:id:owari-nagoya55:20210524170104j:plain御詠歌碑の後方に石段が続きその先に仁王門がある。
後方の信徒会館があまりに大きいので門そのものは小さく見えてしまう。

f:id:owari-nagoya55:20210524170125j:plainなちさん霊場の石標から石段が伸び仁王門に至る。
もとは旧参道に建っていたが、明治政府の廃仏稀釈(1868年)により取り壊されてしまった。
現在見る仁王門は1933年(昭和8)に新たにこの場所に復興されたもの。
入母屋造りの木造の仁王門、彩色は適度に色褪せ落ち着いた佇まい。

f:id:owari-nagoya55:20210524170144j:plain安置される仁王像は鎌倉時代の仏師で運慶の子、湛慶(たんけい)作と伝わるもの。
高さは3㍍を越え、筋肉の盛り上がりや見開いた目など力強い像です。
県指定文化財

f:id:owari-nagoya55:20210524170203j:plain門をくぐると仁王像と背中合わせに狛犬

f:id:owari-nagoya55:20210524170222j:plain寺の栞で狛犬の紹介はなく、県や町の文化財リストに上がっておらず、年代など詳細は不明。
獅子頭の様な顔つきの木造の狛犬、胸を突き出し背筋を伸ばして手の込んだ台座の上から本堂を見上げているように見える。

f:id:owari-nagoya55:20210524170239j:plain
狛犬達の見上げる先に本堂。

石段を上がり切ると下から狛犬の視線を感じる。

なんだろう、熊野に来てからこの程度の石段は苦にならなくなった。

f:id:owari-nagoya55:20210524170256j:plain石段を登り切りると左に那智大滝から導かれた清浄水、「延命の水」と呼ばれる。

f:id:owari-nagoya55:20210524170314j:plainそして正面に本堂。
如意輪堂とも呼ばれる高床の入母屋造で、大きな向拝を持ち堂内は外陣と内陣に分かれています。
戦国の時代には兵火で焼失するも秀吉により再建され、栞によれば飛鳥時代から六度目の建物だという。
桃山時代の建築物では県内最古とされ、こうして見る姿は廃仏稀釈の災難から免れ、1924年(大正13)に解体修理を受けたもの。

f:id:owari-nagoya55:20210524170332j:plain西国第一番札所 那智山 青岸渡寺
印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝で修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初とされ、先に掲載した補陀洛山寺も裸形上人により開基された。

f:id:owari-nagoya55:20210524170349j:plain本堂

f:id:owari-nagoya55:20210524170408j:plain堂内
外陣上部に掛けられた「鰐口」はかる日本最大、秀吉が本堂再建の際に寄進したもので直径1.4㍍、重さ450㎏の鰐口にはその趣旨が刻まれている。
本尊の如意輪観音菩薩は秘仏

f:id:owari-nagoya55:20210524170432j:plain仁王門の横に聳えていた信徒会館、こうして見る姿は普通ですが、下から見上げた姿は近代工法を用いた舞台造りとでも云えばいいか、立派な建物だ。

f:id:owari-nagoya55:20210524170449j:plain本堂右に水子堂、その右に建つ宝篋印塔は1322年(元亨二)のもので塔身四面に梵字が刻まれたもので重要文化財に指定されています。
後方の屋根は鐘楼で更にその後方の高みには大黒堂(如法堂)と続く。

f:id:owari-nagoya55:20210524170505j:plain鐘楼
1903年(明治36)に復興され、梵鐘は1324年(元享4)鋳造のもので、高さは1.9㍍あるという。県指定文化財

f:id:owari-nagoya55:20210524170522j:plain大黒天堂
鐘楼右手にあり、大黒天を本尊とする。
もとは光明堂と称し回向(えこう)堂だったが1924年(大正13)現在の場所に移築された。
本堂修理中には仮本堂として利用された。

f:id:owari-nagoya55:20210524170540j:plain大黒天堂正面全景
伝教大師の作とされる「蓮華の葉上大黒像」が祀られ、大黒天を中心に七福神が勢揃いする。
大黒天堂は向拝飾りや木組みなど、彫り飾りに視線が行く。

f:id:owari-nagoya55:20210524170620j:plain向拝側面

f:id:owari-nagoya55:20210524170639j:plain木鼻や向拝等に施された彫飾りは手が込んでいる。
額は大黒天。

f:id:owari-nagoya55:20210524170657j:plain堂内は薄暗く、外陣と内陣に別れている。
外陣の天井は一面朱色の提灯が吊るされていて、中央に本尊の大黒天、左右の厨子には六福神が祀られている、御真言は「おんまかきゃらやそわか」

f:id:owari-nagoya55:20210524170716j:plain阿弥陀堂
大黒天堂から更に右の参道を進んだ左に建ち、1994年(平成6)に新たに建立されたもの。

f:id:owari-nagoya55:20210524170734j:plain

信徒会館やこの辺りまで来ると、三重塔と那智の滝が一望できる。

f:id:owari-nagoya55:20210524170756j:plain三重塔
もともとは平安末期に建立され、その様子は「那智参拝曼荼羅」にも描かれていて、江戸時代に自然災害で倒壊、こうしてみる塔は1972年(昭和47)にこの地に復興したもの。
内部に飛滝権現の本地仏千手観音を安置、内部は壁画が描かれ塔にも登る事が出来(有料)那智の滝や太平洋を一望できる。

f:id:owari-nagoya55:20210524170816j:plain三重塔の脇にある那智山の石標と遥か前方の岩盤から流れ那智の滝
ここから次の目的地「飛滝神社」へは下りの石段(帰りは上り)と整備された歩道を進みます。
那智の滝は更に大きく迫ってくる。

f:id:owari-nagoya55:20210524170834j:plain御朱印と御詠歌、念願の一番札所。

西国三十三所巡礼一番札所 那智山 青岸渡寺
宗派 / 天台宗
開基 / 仁徳天皇御代
開山 / 裸行上人
本尊 / 如意輪観音
所在地 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8番地 

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梅雨入り早く紫陽花の開花は早め「茶屋ヶ坂公園」

異常に速い梅雨入り
今年の雨の降り方が少し心配になる
久し振りにお日様も顔を出し、真夏日予想が出ていたけれど意外に過ごしやすかった
梅雨となれば紫陽花
いつもの茶屋ヶ坂公園へ様子伺いに

f:id:owari-nagoya55:20210523203442j:plain

緊急事態宣言下の愛知県、成績はさっばり上がってこない、解除も程遠い。
遠出の計画も増えていくばかり、皆さん一緒だと思う。

とはいえ家ばかりでは精神的におかしくなる、息抜きは必要。
ましてや歩かないのは致命的で心の病以上に体の衰えを感じる。
密を避けつつ季節の移ろいを探しに歩く。
せめてもの心と体の健康管理だ。

一足先に今年の紫陽花を見ようと訪れる方もちらほら
恐らく1週間後には画面いっぱいに紫陽花が広がると思います。

今年は紫陽花の開花も早い様な気がします。
2021/5/23 
茶屋ヶ坂公園
所在地 / ​
名古屋市千種区鍋屋上野字汁谷 

富山ブラックラーメン

2021/03/23~24日、車で越中能登、加賀の一之宮を巡った際に立ち寄った「麺家いろは 射水店」
こちらで食べた独特の黒いスープのラーメンが印象に残っているので掲載しておこう。
高瀬神社の参拝を終えて射水神社に向かう途中の射水市内にあり、かみさんの昼食候補地に組み込まれていたお店。
こちらを目指し歌の森運動公園の南付近でナビが方角を見失い道に迷う。
おかげで黒河神社との出会いもあったりしたが、随分ナビも頑張っていたようで、黒河神社から5分程でいろはに到着する事が出来た。

f:id:owari-nagoya55:20210522101012j:plain幹線道路に面して建つ「麺家いろは 射水店店舗」

店舗前と後方に駐車場がある。
入口付近の「白エビら―めん」の幟に魅かれるが目的は「富山ブラックらーめんを味わう」なので
ここで白エビには惑わされない、初志貫徹。
店舗入り口に貼られた「平穏な日々戻る事を祈ります!」のメッセージが目に止まる。
思いは皆同じ、この張り紙が早くなくなる日が来ればいいのだが。
店内は入口正面が厨房でその前にカウンター席と左右にテーブル席。
以下のメニューは2021年3月時点でのものです。

f:id:owari-nagoya55:20210522101031j:plainこれが「白エビら―めん」・・・・・そそられる。

右は拘りの味噌を使った「味噌ら―めん」とある、これ以外にもメニューは豊富です。

f:id:owari-nagoya55:20210522101050j:plainこれが目的の「富山ブラックらーめん」なんじゃこれ、スープ真っ黒だがね。

これで決まりだ。

f:id:owari-nagoya55:20210522101125j:plainかみさんはメニュー中央の味玉らーめん、相変わらず煮卵には弱いようです。

おやじは下のランチをお願いした。
店内は適感染対策も万全で客の誘導はテーブルを開ける配慮や、店員の迅速な対応もこのご時世ありがたい。
店内は落ち着いた雰囲気、ランチ時という事で周辺の方が大半のようです。

f:id:owari-nagoya55:20210522101154j:plainこれランチセット。

富山ブラックらーめんとライス、日替わりサイドメニューが付く、炭水化物+炭水化物やめられない。
 
スープは見るからに黒く、さぞかし醤油辛いと思いきや、意外にそれほどでもない魚介系の出汁。
大きなチャーシューも2枚添えられ食感はトロトロ、麺は多少太く黒いスープがよく絡む。
東京ラーメンショーでグランプリ受賞も頷ける。
最後の方は多少スープの魚醤の辛さが感じられるけれど、ライスやサイドメニューと合わせると気にならない。
歳を考えると昼から食べ過ぎ、お腹一杯で満足感もタップリ。

インパクトのある見た目だけで終わらない美味しいらーめんでした。

麺家いろは 射水
営業時間 / 11:30~22:00(LO21:30)   土曜日及び祝日前日 / 11:00~22:00(LO21:30)年中無休
所在地 / 富山県射水市戸破1555-1 
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黒河神社からルート / ​車で5分程

「八尾稲荷」瀬古東2

矢田川の堤を超えて国道19号線の東側を歩いて街角の天王社を二社参拝して来ました。
次は国道19号線の「瀬古中島」交差点から国道の西に向かい、下街道に向かいます。
くねくねとした見通しの悪い細い道が南北に続いています、それが下街道。

f:id:owari-nagoya55:20210521172457j:plain下街道に入り1~2分程で写真のように周囲に民家が立ち並び、細い道は縫うように伸びています。
目的地『八尾稲荷』は前方左、この道を更に北へ進むと東春酒蔵を経て、庄内川に至ります。

f:id:owari-nagoya55:20210521172513j:plain街道左に駐車スペース(確かではない)があり、小さな杜が見えます。
携帯のグーグル先生は暑さの為か今一つ案内がおかしい、この場所は「八尾稲荷」と表示して見たり「秋葉堂」と表示したりしている、少し休ませてやろう。
過去に東春酒蔵までは何度も歩き多少は方角は分かる。

f:id:owari-nagoya55:20210521172528j:plain『八尾稲荷』全景
右手に切妻瓦葺の建物があり、その左に石段がありその頂に社が祀られています。
境内は鳥居や稲荷を守護する狐の姿などありません。
過去歩いてきて存在に気付かなかったのはこうした外観もあるだろう。
グーグル先生の言う「秋葉堂」は恐らく右の建物をさしているのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210521172545j:plain石段の前にきて、社の前に白い陶器の狐の姿を見て漸く稲荷らしさを感じることができます。

f:id:owari-nagoya55:20210521172601j:plainこの時期、石段脇のサツキは盛期を過ぎ、風が通るたびに花びらが石段の上に舞い落ちています。
正面から取りたいところですが、周囲は民家が迫り石段の下から見上げて撮ってみました。
結構な高さがあります。

f:id:owari-nagoya55:20210521172617j:plain石段を上り参拝。
狐をアップで撮ってみると、手前の白い狐の後方にやや斜め上を見据える大きめの狐が祀られています。
右の狐は鼻の部分が欠け落ち痛々しいものがある。
この街道沿いにいつ頃から鎮座するのかよく分からない。
この辺りは街道沿いの宿場として賑やかな頃もあった、また周囲には田園も広がっていました。
そうした環境もあり商売繁盛、五穀豊穣の神さまが祀られているのかもしれない。

また、宿や農家が集まる集落は火伏の神も必要だろう。
右隣の秋葉堂?は建物の前までお邪魔するも、社は見当たらない。
建物の中でお祀りされているのでしょう、中が見通せないのではっきりしませんが「秋葉堂」でいいのかもしれない。

朱塗りの稲荷鳥居や玉垣がある訳ではなく、街道沿いの少し奥でひっそりと佇む感じです。
何気に素通りしてしまう。

『八尾稲荷』
創建 / 不明
祭神 /  宇迦之御魂大神
所在地 /   ​名古屋市守山区瀬古東2
新守西「天王社」から徒歩アクセス / ​国道19号線「瀬古中島」交差点の西
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稲置街道を行く 『外町天満宮』

『神護山先聖寺』の続きとなります。

先聖寺大雄宝殿の右に南を向いて境内を構えた『外町天満宮』が鎮座しています。
社地はもともとなのか、盛られたものか分からないけれど二段となっています。

f:id:owari-nagoya55:20210520012526j:plain社頭右には石仏が並び、コロナ禍を乗り切るため思案に暮れる如意輪観音像や馬頭観等が安置されていて、何れも見てのとおり結構な歳月を重ねているようです。
一番右側に最近ほとんどお目にかからなくなった二宮金治郎(尊徳)像があります。
仕事をこなしつつ、学ぶその姿、少し古めの学校の校庭では出逢えるかもしれないが、直近で出会ったのは昨年四国に行った時以来か?

こうして眺める『天満宮』、社地が盛られているのがよく分かる。

f:id:owari-nagoya55:20210520012546j:plain鳥居正面からの全景
右手に「天満宮」社標と一段上がって1911年(明治44)に建之された鳥居とその右には撫で牛。

f:id:owari-nagoya55:20210520012607j:plain2段目が社殿域、小さな狛犬が社殿を守っている。
拝殿は瓦葺切妻造の妻入りで四方吹き抜けのもの。
軒下に架けられた木、良く目を凝らすと天幡宮と書かれているようです。
本殿左右に末社があるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210520012626j:plain1920年(大正9)生まれで小さな体ながら社殿域を守護しています。

f:id:owari-nagoya55:20210520012643j:plain拝殿から本殿方向の眺め。
左は稲荷社のようで、右手には2社が祀られているようです。
『外町天満宮』の詳細はよく分からなかった、犬山市の神社一覧でも創建不詳とある。
祭神は菅原道真

f:id:owari-nagoya55:20210520012703j:plain鞘堂内の本殿は見て取れなかった。
本殿後方に見えている寺院は祥雲寺。

f:id:owari-nagoya55:20210520012719j:plain本殿右の末社
右 浅間社 左 津島社

f:id:owari-nagoya55:20210520012736j:plain本殿左に鳥居を構える稲荷社。

f:id:owari-nagoya55:20210520012753j:plain境内社の詳細は不明。

f:id:owari-nagoya55:20210520012810j:plain拝殿前から「先聖寺」境内の眺め。
艶やかな大雄宝殿に対し、『外町天満宮』はひっそりと佇んでいます。
そんな境内に梅が彩りを添えている。

f:id:owari-nagoya55:20210520012826j:plain唐様式の大雄宝殿と外町天満宮、そして天井画や御朱印
時が過ぎるのが早く感じる。
さて、街道に戻り先に進もう。
2021/3/9

外町天満宮
創建 / 不明
祭神 / 菅原道真
境内社 / 稲荷社、浅間社、津島社
住所 / 犬山市大字犬山南古券51 (先聖寺境内)
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稲置街道を行く 『神護山先聖寺』

稲置街道を行く、以前掲載した南古券の「津島神社」、そこで掲載した秋葉神社から徒歩で1~2分程犬山城方向へ。

f:id:owari-nagoya55:20210518101218j:plain街道の左手に「神護山先聖寺」の寺号標と参道が現れる。
車1台通るのがやっとの狭い参道ですが、奥には駐車場もあります。
参道の左には「外町天満宮」の社標があり、その奥には「梅梢戯」と書かれた大きな山車の保管庫とその脇に「犬山の唐寺」と書かれた案内板があります。
視線の先に山門と特徴のある赤瓦の寺が見えています。

f:id:owari-nagoya55:20210518101235j:plain保管庫に掲げられた解説には外町の由来と「梅梢戯」について記されている。

「外町とは犬山城下町の外部の堀の外にできた町からきている。
ここは下本町の南に続く町で、以前は八幡町・九軒町・天神町などといったが、犬山城主成瀬正虎の頃、名古屋街道が開設され下本町との境に木戸が設けられたそうです。
町内には玉屋庄兵衛作のからくりで知られる犬山祭りの車山(やま)「梅梢戯」がある。」

犬山祭りは針綱神社の祭礼として1635年(寛永12)から続く歴史ある祭り、2016年(平成28)に全国33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されている。

ユネスコ無形文化遺産
犬山祭り、残念ながらこの歳になるまで縁がなく見た事がない、見ておくべきものかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210518101252j:plain参道から見る山門と摩伽羅の乗る本堂の眺め。
山門左に境内駐車場があります。

f:id:owari-nagoya55:20210518101311j:plain山門の趣は本堂の外観に比較すると見慣れたものです。

f:id:owari-nagoya55:20210518101329j:plain「不許葷酒入山門」の石標
臭いのある食べ物を食べたり、酒臭い者は修業の場に相応しくないからこれ以上は立ち入るな。
そんな内容です、今はまだ大丈夫だ。

f:id:owari-nagoya55:20210518101346j:plain山号額の先に境内が広がり、左手に解説板が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20210518101402j:plainコロナ禍に合ってどことなく響く教えだ。

f:id:owari-nagoya55:20210518101417j:plain先聖寺沿革 
「當寺は禅宗黄檗宗(本山宇治の萬福寺開山隠元大和尚)の末寺である。
延宝四丙辰年(1676年)名古屋竹屋町より浄土真宗泉正寺という潰寺の号譲り受け、開山上州黒龍不動寺潮音道海大和尚とし、開基はその弟子玉堂大和尚<没元禄七甲戌年(1694年)>を請け熊野山先聖寺と称した。(現在の熊野町熊野権現之社東)

玉堂大和尚は博学大徳で城下はもとより近隣より参禅する者多く、町医鈴木玄察、内藤丈草など巨なる者あり蕉門四哲(其角、嵐由紀、去来、丈草)の一人丈草は玉堂大和尚より多大の影響を受け出家までした。
その時の歌に「身をかくす 浮世の外は なけれども のがれしものは 心なりけり」があり、句碑(昭和28年建立)木曽川辺にて「ながれ木や 篝火の空の 不如帰」がある。
享保御五乙未年年(1715年)来鳳和尚が現在の外町天神庵に移転し、神護山先聖寺に改め、諸堂を西向きに造立した。
享保十三戊申年(1728年)より密傳和尚が大施餓鬼を始め、仏殿を東向きにし、大門口を町並へ替え現在の門是なり。
昭和三十四年(1959年)の伊勢湾台風にて仏殿、鐘楼門等を倒壊した。
平成十六年(2004年)二月、儒教道教、仏教の三教一致の根拠地となるべく、黄檗風二層平屋建の本堂の建設に至った。
「三級浪高魚化龍」より登り口、柱、天井(黄光琳画)と散弾の龍を配し、屋根には摩伽羅をのせているのが特徴である。
納骨堂(宗派は問いません)
写経(第三日曜日十時半から十二時)
普茶料理(中国式精進料理)」

f:id:owari-nagoya55:20210518101435j:plain右手に子授かり地蔵と石の祠があり、右手が寺務所。

栞には本山萬福寺の創建として以下のようにも書かれている。
黄檗宗隠元隆琦を開祖とし、京都府宇治市黄檗萬福寺を本山とする。
隠元は1654年63歳で中国の黄檗萬福寺から来日した。
当初3年という年月を限っての来日であったが、江戸で将軍家綱と陰元を取り巻く状況が大きく変わり長く日本に留まることになった。
宇治の地に黄檗萬福寺が開創され我が国の禅宗臨済宗曹洞宗黄檗宗の三派となった。」
サラリーマンでもよくある事だね、行ったっきりとかは。

f:id:owari-nagoya55:20210518101453j:plain祠の中には石像が安置されている。

f:id:owari-nagoya55:20210518101512j:plain右手に錫杖、左手に巻物を持つこの姿、これは役行者だろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210518101529j:plain本堂全景
大雄宝殿の一際大きな額が掛けられ、唐様式の彩色と外観は印象に残りますが、外観だけではなく他にも目を引くものが多々あります。

f:id:owari-nagoya55:20210518101544j:plain本堂石段中央に球を持つ龍をモチーフにした彫物があり、桃扉の先の本堂には本尊の他にも複数の仏像が見て取れる。

f:id:owari-nagoya55:20210518101603j:plain拝殿の軒を支える柱に施された龍の彫飾りは見事なものです、じっくりとひと回りして見るだけの価値はある。
御朱印を書いて頂く間は本堂の中で待つ事になります。
内部は写真撮影もOKという事です。

f:id:owari-nagoya55:20210518101622j:plain寺号額
本堂は外観から見ると二階建てのように見えますが、内部は天井まで吹き抜けになっています。

f:id:owari-nagoya55:20210518101639j:plain魚梛
檗宗の寺院特有の魚の形をした木製の鳴らしもので、時刻や食事の時を知らせるためのもの。
隠元禅師が渡来した際、日本に伝えたものと云われます。
木魚の原型ともいわれるようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210518101657j:plain京都の萬福寺がそうであるように、本堂には弥勒菩薩の化身とされる布袋さんが中央に安置されています。
「さわり布袋」
どうでしょう、元は金地のものが触られまくって地色が見えてきています。
ふっくらとした顔立ちで表情はにこやかに笑みを浮かべています。
金運や財産の保全にご利益があるようです。

大雄宝殿の内部は中央とその左右の計三つの須弥壇が設けられています。
左壇は開山者の玉堂和尚坐像。
中央壇上は本尊の聖観世音菩薩坐像、左に達磨大師坐像、右に安置されているのは文殊菩薩のように見えます。
右壇には関聖帝君が安置されている、商売繁盛、入試合格にご利益がある。
その他にも小さな像が複数あります。

f:id:owari-nagoya55:20210518101714j:plain黄檗宗で龍は仏法を守護する八つの神様の一つ(龍神)で、黄檗宗のお寺の天井には龍が描かれる事が多く、先聖寺の吹き抜け天井にも写真の見事な天井画が描かれています。
こちらの住職は絵心があり、下絵を中国に送り、それを元に中国の画家により描かれたものだという。
住職が御朱印を書き終えるまでの時間、この躍動感ある構図で描かれた龍を眺めていられる。

f:id:owari-nagoya55:20210518101730j:plain蛇は大嫌いだがこうして綺麗描かれた龍を眺めるのは好きだ、ずっと見ていられる。

f:id:owari-nagoya55:20210518101747j:plain大雄宝殿左からの斜景。
右奥に見えているのは「外町天満宮」、こちらは日を改めて記載します。

「神護山先聖寺」
宗派 /  黄檗宗 
建立  /  1676年(延宝4)、現大雄宝殿は平成16年再建
本尊  / 聖観世音菩薩坐像
所在地 / 犬山市大字犬山字南古券48
秋葉神社からのルート / ​秋葉神社から北へ1~2分
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時間をかけ書いて頂いた見開きの御朱印
初めての方は必ずこれになり、以降は月に応じて絵柄を変えているようです。

高岡市 「大佛寺と高岡大佛」

富山県高岡市大手町11-29
高岡古城公園の『護国神社』を後に駐春橋を渡り、大仏前通りを300㍍程歩いて行きます。

f:id:owari-nagoya55:20210516092647j:plain高岡大仏のある「大仏寺」は交差点の左角。

f:id:owari-nagoya55:20210516092710j:plain交差点から左を見ると御覧の通り巨大な高岡大仏が目の前に。
山門こそないながら参道両脇には大きな仁王像が安置されている。
1968年に建立されたスタイリッシュな仁王像。
比較的穏やかな表情ですが、仏敵は一切入り込ませない強い意思が伝わってる。
本当に怒らせた時この表情はどう変わるのかそれが逆に怖い。

f:id:owari-nagoya55:20210516092737j:plain境内の燈籠と左に大仏寺が見えてくる。

f:id:owari-nagoya55:20210516092754j:plain燈籠の左に鐘楼があります。
高岡市指定文化財の「時鐘」と呼ばれる素朴な鐘楼です。

f:id:owari-nagoya55:20210516092811j:plain梵鐘。
飾りのない素朴なもので、随分使い込まれた感じが漂う。
1806年(文化3)に鋳造されたこの梵鐘、実は二代目なんだそうな。
初代は1804年(文化元年)だという、僅か2年で改鋳が必要になったようですが理由までは分からない。
初代も2代目も目的はひとつ、当時の高岡には時を知らせる時鐘がなかったという。
当時の高岡町奉行の寺島蔵人は町民が秩序を保った規則正しい生活が送れる事を望み町民の為に時鐘を作りたかったようだ。
以来この鐘は毎日午前6:00と午後6:00の2回毎日時を知らせ続け現在も現役で働き続けている。
そんな梵鐘も1879年の大火で被災し梵鐘は櫓を失くし、場所を変えて時を告げ続けたそうだ。
その後も1900年の高岡大火で再び被災、一時は時を告げる事はなかったようですが1931年大仏寺に移され再び高岡の町に時を告げるようになったそうだ。
戦時中の供出に合う事もなく、幾度の大火から蘇ってきた梵鐘、なにか不思議な力を持っているようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210516092831j:plain時鐘の解説。

f:id:owari-nagoya55:20210516092849j:plain大仏寺は昭和3年に開かれた高岡新西国三十三観音札所の二十九番札所で霊場御本尊の「馬頭観世音菩薩」の石仏が祀られ、その他にも複数の石仏が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20210516092906j:plain馬頭観世音菩薩

f:id:owari-nagoya55:20210516092926j:plain大仏寺扁額
山号は風徳山、宗派は浄土宗。
開基等詳細は分からないが梵鐘同様に大火で被災し、1745年に再興される以前は一時荒廃したようです。

f:id:owari-nagoya55:20210516092942j:plain「高岡大仏」
高さ約16メートルの阿弥陀如来坐像で、日本三大佛に数えられ幾度も造立され、現在の物は1933年(昭和8)の造立されたもの。
1221年源義勝によって約4.8mの木造大仏が二上山の麓に建立された事から始まり、与謝野晶子は高岡を訪れた際に、「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとも伝わる端正な顔立ちの大仏です。
日本三大佛は奈良の大佛、鎌倉の大佛、残りは高岡大佛、岐阜大仏、東京大佛など諸説あるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210516092957j:plain三大佛だろうが、なかろうが、高岡大仏のこの優しい表情はそれだけで誇れるものだと思う。
ここまで来るまで、見る角度によって大佛の表情が変わっていく様に見える。
台座直下から見上げるその眼差しは、優しい穏やかな眼差しで見守られているような気になる。

なんだか変なご時世のなか、日常生活ではついつい目は△になりがちだ。
あるべき姿がこの表情なのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210516093014j:plain高岡大佛仕様と文化庁解説。
高岡市の指定文化財に指定されている。

f:id:owari-nagoya55:20210516093030j:plain高岡大仏の台座の下は回廊になっていて自由に入る事が出来ます。
回廊に内は阿弥陀三尊像や戦後の高岡在住画家の描いた仏画や、大火で類焼した2代目大仏の焼け残りとされるご尊顔が安置されています。
現在の大佛は鋳造佛、想像図ではあるけれどその工程は大変な作業だったことは容易に理解できる。

f:id:owari-nagoya55:20210516093046j:plain廻廊入口付近の様子、聖徳太子となで仏が安置されていた。

f:id:owari-nagoya55:20210516093101j:plain1900年(明治33)の高岡の大火で 金箔の舟形光背に千体佛を配した木造の大佛は顔を残し焼け落ちてしまった。その焼け残りがこのご尊顔。
顔を取巻くように配された掛け佛は十二の恩徳を表わし、1933年(昭和8)の再建の時に大佛の光背に掛ける予定で鋳造されたものですが、計画は中止となり、1981年(昭和56)の昭和大修理の時に周りに並べ祀ったもの。

f:id:owari-nagoya55:20210516093116j:plain少し離れるとまた眼差しも変って見える。

大佛寺
山号 / 風徳山
寺号 / 大佛寺
本尊 / 阿弥陀如来
宗派 / 浄土宗
開基 / 不明
札所 / 高岡新西国三十三ヶ所観音霊場 第29番
所在地 / 富山県高岡市大手町11-29
護国神社から徒歩アクセス / 大仏前通りを徒歩5分程
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