市営地下鉄千種駅、JR中央本線千種駅とリンクしアクセスが便利なところ。
ここから近くの電気店に用もありこの辺りを少し寄り道をしてみました。
地下鉄3番出口から東の眺め。
正月休みということで行き交う車の少ない事、普段は騒がしい街も静まり返っています。
錦通りを東に進み、内山三丁目交差点を左に桜通りを超えます。
上は桜通りから東の池下方向の眺め、目指すは千種区内山1丁目の「蝮ヶ池八幡宮飛地境内社 西八幡社」。
内山町の由来は諸説あります。
その一つにその昔ここから東にかけて台地の荒れた山が迫り、この辺りは台地の端っこにあたり、その谷間の小さな平地だったことから山の縁、縁山が訛って付いたと云われ、今でこそ丘陵地に緑はなくなり、延々とビルや住宅が広がり、そうした面影はなくなりました、坂の多さでそれを想像するのみでしょうか。
大手電機店の東の通りの一画に小さな杜があり、玉垣が視界に入ってきます。
目的地の「蝮ヶ池八幡宮飛地境内社 西八幡社」。
神社正面全景、コンクリートの向拝と橘の神紋が入った提灯がつるされています。
左の柱に蝮ヶ池西八幡社と記されたの社号札が掲げられています。
向拝の先はすぐに本殿。
手前には小ぶりな狛犬が守護しています。
境内右の手水鉢。
こちらは古い手水鉢でしょうか。
本殿全景。
流造の社で東を向いて鎮座しています。
右手に保存樹ヒマラヤスギとありますが立札のみで、既に存在せず切り株だけが残っていました。
街中にあって植えられた木々は大きく枝を張り、小さな境内は日差しが届かないようです。
それがまた、ここが特別な空間であることを物語っている。
小さな狛犬ですが、小顔で表情も険しく、肋骨が浮かび上がり凛々しい容姿をしています。
境内左に由来が掲げられています。
「西暦1633年、蝮ケ池八幡大神を一時仮安置された由緒ある神社。
元の鎮座地が拡張道路敷地内にあった為、昭和11年に現在地に祭祀された。
昭和19年新しく伊勢神宮、熱田神宮、津島神社の御祭神をお祀りしたところ、御神徳あらたかで先の大戦で町内の氏子は空襲の災害を免れました。
荒廃甚だしい畏れ多い状態にあった神社は町内氏子を中心に社殿改築を図っていた時、御神託により「地蔵の氏神様である蝮ヶ池八幡宮の御祭神「応仁天皇天皇の御両親の神様をお祀りせよ」とのお告げがあり、昭和二十七年山口県下関市豊浦村の忌宮神社より両大神様を迎えた。
同年神社本庁から蝮ヶ池境内社西八幡宮として承認を受ける。
昭和五十七年には御鎮座30周年を記念し社殿の台座、階段の修復、玉垣及び手洗所賽銭箱を新調設置、境内整地を行った。徳川美術館所蔵の古文書に記載が残る。」
とある。
蝮ヶ池八幡宮は、明正天皇(1624~1696)に尾張藩の兼松源蔵が石清水八幡宮の分霊を勧請し、自邸(現在の仲田付近)に近い西八幡社の地に祭ったのがその始まりと伝わる。
後に蝮ヶ池八幡宮の社殿を現在地に造営、当地の鎮守として建てられたと云われる神社で橘が神紋。
上の話から行けば、蝮ヶ池八幡宮飛地境内社の西八幡社はそれ以前、或は同時期にはどこかに鎮座していたことになる。
そして昭和11年に入り道路拡張に合わせ現在の内山町に遷座、神社庁から飛地境内社に承認後30周年が昭和57年という事になのだろう。
分からないのは、西八幡社の「元の場所は何処よ、当時はなに、なぜ飛地になったの」と言う事ですが
さっぱりわからない。
因みに蝮ヶ池龍神社・辨天社も蝮ヶ池八幡宮の飛地境内社になります。
上は明治24年の周辺の地図、右は現在。
赤塗は西八幡社、黄色が蝮ヶ池八幡宮、青塗りが蝮ヶ池龍神社・辨天社。
現在の西八幡宮の位置には神社はない、仲田付近にもそれらしい記載はありません。
ここは由来を純粋に受け入れ、考えるのは止めた方がいいのかもしれない。
徳川美術館か蝮ヶ池八幡宮でこのあたりは分かってくるのかも知れません。
今見えるコンクリートの外観に囚われてしまうと駄目ですね。
蝮ヶ池八幡宮飛地境内社 西八幡社
創建 / 不明
祭神 / 仲哀天皇、神功皇后
住所 / 名古屋市千種区内山1丁目20-17
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄東山線「千種」駅下車東へ徒歩10分程