豊橋市御園町「東田古墳・御嶽社 」

豊橋市御園町の朝倉川左岸に位置し、東田神明宮の西隣りに鎮座するのが御嶽社。
鎮座地は古墳時代中期の5世紀頃に築造された東田古墳と呼ばれる前方後円墳の上に築かれている。

南西角から東山古墳を眺める、この交差点を右に曲がって50㍍強ほど進むと左側が東田神明宮。

豊橋を流れる豊川流域には古墳が多く、この朝倉川流域には、40基ほどの古墳が分布していたとされ、東田古墳はその一つ。
深い社叢に包まれており、周囲から社殿は見通せないが、社叢の二つの盛り上がった感じから、東西に長い前方後円墳の雰囲気は感じ取れます。
古墳の周囲は生垣で囲われており、一見しただけでは神社が鎮座するようには見えない。

南東側から東山古墳を眺める。
周囲を囲っている生け垣はここで途切れ、参道が作られている。

この流域に築造された古墳の多くは円墳とされ、ここ東田古墳は、長さ40㍍ほどの前方後円墳
明治12年(1879)から同13年頃に御嶽社社殿造営の際、土中から副葬品の鳥文鏡と大刀が出土し、豊橋市内で鏡が見つかった数少ない古墳だという。
古墳時代中期の当時権力者の埋葬のため築造されたこの古墳、出土した鏡は飛翔する鳥が描かれ手の込んだもの。
当時、鏡は大和王権との結びつきを示す権威の象徴とされたそうで、これまで本格的な発掘調査はされていないようで、どのような有力者だったのか不明。
御嶽社社頭の解説によれば、古墳の規模は全長40㍍、前方部は幅16㍍、高さ4㍍、後円部は直径20㍍、高さ3㍍あると云います。

参道は途中から石段となり古墳前方部に続く。
参道左の石碑は「境内改修之碑」で碑文の内容は以下。

「当東田御嶽神社は、明治初年の創建にして、国常立神、大己貴神少彦名神を祀る。
御鎮座の岡、東田古墳は五世紀頃築造の前方後円墳である。
昭和49年周辺地域の区画整理に際し、墳麗の大半を露出するのは止むなきに至った。
所有者随神大孝道側、施工者区画整理組合側、監督側豊橋市、考古学者側の四者が現況確認と保存措置を講じた上で実施、後世に残す。
その上で大孝道場が再建された」

こちら側が前方部にあたり、御嶽社に続く石段の上り口に手水鉢が置かれている。
明治期に築かれた石段は、それ以上の時を刻んでいるような趣がある。

前方後円墳の後円部に建てられた御嶽社の社殿。
前方部に合わせて後円部を1㍍程削り平坦な境内が作られたようです。
墳丘からは野焼きで焼かれた埴輪も見つかっているようで、そこから5世紀頃の築造と推測されるようです。

墳丘の周囲は鬱蒼とした樹々が茂り、切妻造の平入拝殿の左右は切れ落ち、後円部を平坦にして出来た敷地一杯に社殿が建っているようすが窺われます。
御嶽社といえば霊神碑が立ち並ぶ印象がありますが、境内を見渡してもそれらしき姿は見当たらなかった。

拝殿右隅にひとつの石碑があるが霊神碑だろうか。
現地では正面に文字が書かれている様にみえたが、いま写真を拡大してみても良く分からなかった。

拝殿額には御嶽社と書かれています。

拝殿左から墳丘の南側に降りる石段が作られ、そこから社殿を見上げると拝殿と一体になった幣殿?と本殿の姿が見られます。

木立の隙間から望む本殿。

墳丘を降りた南側には豊橋生まれの影山庄平翁之碑と、樹々に包まれた社殿を背にして建つ霊神碑があった。
霊神碑の数こそ違うが、こうした光景は霊峰御嶽の里宮に似た光景を漂わせている。
ここ東田古墳の墳丘は崇敬者には霊峰御嶽の姿そのものなんだろう。
明治の時代、ここに御嶽社を建てなければ、古墳はとうに宅地化されていたことだろう。
御嶽社はある意味で古墳の鎮守でもある。

東田古墳
築造 / 古墳時代中期
古墳形式 / 前方後円墳

御嶽社
創建 / 明治12年(1879)
祭神 / 国常立神、大己貴神少彦名神
所在地 / 愛知県豊橋市御園町5-5
参拝日 / 2023/10/14
安久美神戸神明社から東へ徒歩 / ​約30分
参拝日 / 2023/10/14
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