飛驒一宮水無神社

飛驒一宮『水無神社』
スキーをされる方は位山と聞くと「位山スキー場」を御存知かと思います。
おやじにとって人生初のスキーを経験したのが当時の「位山スキー場」、いい思い出はない。
ここでいきなりリフトに乗せられ「降りてこい」と云われ、死ぬ思いで斜面を転がり落ちていったのがトラウマとなりしばらくは行く気にならなかった、最初の印象は後々に影響するものです。
スキーは大好きです、その境地に至るまでには随分時間と人との出会いが必要でした。
面倒見のある人と出逢えるか否か、これが好きになれるか嫌いになるのかの別れ道だと痛感します。

水無神社』はその位山を神体山とし、古来より霊山として名高く、宮川の源流でもある。
位山には水無神社の奥宮もあるそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20201112180915j:plain 高山の町から国道41号線を30分程下呂方向に向かう、国道から左折するとそこは社頭。
常夜灯とその先の鳥居がすぐ目に付く。

f:id:owari-nagoya55:20201112180957j:plain 鳥居前には位山から湧き出た水は渓流となり宮川として日本海へ流れます。
神橋の袂の梅花藻の散歩道の案内板。
この案内板によればこの川は常泉寺川と呼ばれ、この下流で宮川に合流します。

f:id:owari-nagoya55:20201112181021j:plain 澄んだ流れは梅花藻を見る事が出来るようです。
しかし川岸に彼岸花の咲く時期では生憎とその姿は見られませんでした。
梅花藻と聞くと柿田川や醒ヶ井などの緩やかな流れの中で揺らめくイメージですが、ここは流れが結構早い。
釣りであっちこっち行ったけれど、この水系は縁がなくここで梅花藻が見られたとは初めて知らされました、地元の方により手厚く保護されているのでしょう。
緩やかな水面に揺らめく梅花藻の姿は美しいものがあります。
この綺麗な水と水無神社は無関係ではありません。
諸説ありますが社名の水無は「水主(川の水源を司る神)」の意味であり、『みなし』(水成)や『みずなし』とも読み、『すいむ』と音読されることもあるそうです。
社前を流れる宮川には川床があり、流れが伏流して水無川となることから、水無(みなし)川、水無瀬(みなせ)川原、鬼川原(覆ヶ川原)など地名となったそうです。

f:id:owari-nagoya55:20201112181046j:plain 神橋を渡った鳥居の左と社務所の北側に参拝者駐車場があり、そこに駐車します。

f:id:owari-nagoya55:20201112181116j:plain 鳥居から拝殿方向の眺め。
真っ先に視線が行くのは狛犬かも知れません。

f:id:owari-nagoya55:20201112181142j:plainこれは犬なんだろうか、外見の割に色白ですがあまり馴染みのない不思議な容姿をしています。

f:id:owari-nagoya55:20201112181204j:plain 鳥居の左に入母屋造のどっしり感が漂う外観の絵馬殿。もとは拝殿だった。
絵馬殿とは思えぬ大きさ故に境内へ進むのを躊躇い寄り道したくなります。
かみさんの姿はとうにありません。

f:id:owari-nagoya55:20201112181226j:plain 水無神社の拝殿として建てられ、棟札には1607年(慶長12)高山城主の金森長近により造営とある。
1778年(安永7)の百姓一揆「大原騒動」の際に、神主の山下和泉、森伊勢の両名が農民に加担したとして処刑され神主が不在となり、信州より神主の梶原伊豆守家熊が招かれたが、梶原伊豆守家熊は従来の両部神道を改め唯一神道とし、仏像や仏具、社殿を破却、移転、改築を進めたが、拝殿だけは取り壊しを免れたと云う。
やがて明治時代を迎えて、当時の高山県知事が飛騨国中より醵金(きょきん)を募り社殿の造営をおこないましたが、従来の入母屋造りに代え神明造りに統一した際に不釣合いとなったので取り壊されます。
これを惜しんだ氏子達は建材を保管、1878年(明治12)に拝殿再興を願い出て浄財を募り、元の位置に復元されました。
その後、1954年(昭和29)に境内拡張のため、かつての社家跡(山本家屋敷)に移築され現在に至っています。

f:id:owari-nagoya55:20201112181249j:plain 場所は変れど、氏子達に守られ再び嘗ての姿を取り戻した旧拝殿。
中には1819年(文政2)の絵馬も掲げられています。

f:id:owari-nagoya55:20201112181314j:plain

f:id:owari-nagoya55:20201112181336j:plain
 鳥居の右の「ねじの木」、聞きなれないけれどこれは「桧」。
もとは絵馬殿の傍らにあったもので、名の由来のように樹皮がねじ曲がっている。
このねじの木には二つの伝説があるようです、何れも「ねじれ」につながるもので、解説にはそれが記されている。
正月参拝者のお土産に出される飛騨の伝統的な菓子「こくせん」があるそうですが、それはこのねじの木を模したものらしい。

f:id:owari-nagoya55:20201112181409j:plain 二段の境内、妙に大きな傘を持つ石灯籠、それ故四方はしっかりと支えが入れられています。
竿には天保6年(1835年)と刻まれています。
長年このバランスで現在まで残ってきたようです。見た目とは違い、以外に安定しているのかな。

f:id:owari-nagoya55:20201112181432j:plain 境内を一段上がり、ねじの木の左に小さな堂。

f:id:owari-nagoya55:20201112181457j:plain 解説には神馬二体とあります。
中には白と黒の神馬が二体安置されています。
それによれば白馬は1780年(安永9)に飛騨の工匠の武田万匠の手によるものという、もともとは黒馬だったものが白に塗り替わっていったようです。
もう一方の黒馬は左甚五郎作ともいわれるようです。

f:id:owari-nagoya55:20201112181518j:plain 稲喰神馬(黒駒)
古来より「左甚五郎」作と言い伝えられていますが詳細は不明の様です。
その昔、黒駒は毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫を迎えた稲穂を食い荒らしたそうで、見かねた村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地が荒らされる事はなかった伝えられます。
素朴な外観の神馬ですが、解体するのは難しいほどの組み方だそうです。

f:id:owari-nagoya55:20201112181541j:plain 「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子を窺うに行くと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々あったそうです。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。
素朴な姿の神馬ながら得体のしれぬ秘めたる力を持っているようです。

f:id:owari-nagoya55:20201112181607j:plain 島崎正樹句碑
島崎正樹は明治の文豪藤村の父、水無神社の宮司として赴任し、教導職として多くの若者を指導したとされます。
碑には宮村の晩秋を詠んだ「きのうけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里」と刻まれています。

f:id:owari-nagoya55:20201112181634j:plain 境内を見渡すと左に社務所と手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20201112181658j:plain 中央が拝殿、本殿、右に境内社白山神社

f:id:owari-nagoya55:20201112181719j:plain 白川神社
霊峰白山の飛騨側山麓の集落、大野郡白川村は合掌造りの里として世界遺産に登録され御存知の方は多いと思います。
その白川村大字長瀬(通称秋町)と福島の両集落は1957年(昭和32)、御母衣ダムの開発に伴い、ダムの湖底に沈むことになります。
氏子も離散、各集落にあった氏神白山神社飛騨国一宮(総座)の水無神社に遷座、合祀し白川神社として創建されたもの。

f:id:owari-nagoya55:20201112181741j:plain 白川神社を守護する小さな狛犬
小粒な容姿ですが、凛々しい顔つきをしています。

f:id:owari-nagoya55:20201112181805j:plain 「白川神社」解説。

f:id:owari-nagoya55:20201112181825j:plain 白川神社本殿。

f:id:owari-nagoya55:20201112181850j:plain 社務所右手の手水舎、手水鉢。
清水を注ぐ小柄で細身の龍ですがいい仕事をしている。

f:id:owari-nagoya55:20201112181914j:plain 正面の神門から拝殿が垣間見える。

f:id:owari-nagoya55:20201112181942j:plain 神門から拝殿の眺め。
拝殿は左右から廻廊で繋がり、左右の廻廊には飛騨や周辺の神々、産土神など八十八社が纏められています。
ここに書き連ねると結構な数となるので割愛します。写真は2枚を貼り付けたもの。

f:id:owari-nagoya55:20201112182005j:plain 拝殿
狛犬くらいは捉えられないかと思いましたがここまでです。
本殿までは窺えませんが漂う風格は飛騨一ノ宮に相応しいものがあります。

f:id:owari-nagoya55:20201112182028j:plain 神門脇の略記
主祭神水無神御歳大神
相殿神大己貴命神武天皇応神天皇など11柱。
末社延喜式内18社及び国内二十四郷の産土神、一宮稲荷、白川社など

由緒
神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、飛騨川の水主、又は水分の神と崇められ、農耕、殖産祖神、交通の守護(道祖神)として神威高く、延喜式飛騨八社の首座。
朝廷からの崇敬厚く、即位、改元などにはその都度位山の一位材を献上した。
飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社・縁社を二十余社有する。

創建
年代は神代の時代にありとされるが、古伝、旧記が散逸し詳細は定かではない。
記録に現れるのは881年(元慶5)だと云う。
文明年間(1469年~1486年)には水無神社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村、3700余石に達した、後に各ヶが武士化して一宮党として隆盛を誇ったという。
それも1585年(天正13)金森長近に滅ぼされ水無神社は衰退しますが、高山藩主となった長近は水無神社の神威を崇敬し1607年(慶長12)には社殿の造営を行うなど再興に努め、江戸時代には領主、代官の崇敬と庶民の篤い信仰に支えられたと云う。

1868年(明治元年)明治政府の発布した神仏判然令に基づき、神仏分離が進み社内の仏像や仏教関係の古文書等多くを撤去、1871年(明治4)国幣小社に列格。
1872年(明治5)太政官布告をもって世襲神主であった社家を廃し、山崎弓雄を権宮司に、市村成章を祢宜に任じて以降、戦後の神社制度の改正まで歴代官選宮司が任命され、島崎藤村の父であった島崎正樹は1874年(明治7)から1877年の3年程を宮司として務めた。
1937年(昭和12)国営工事として社殿の造営が行われ、一期工事は完成したが、その後1945年(昭和20)の敗戦により造営途中で国家管理から離れ、完成の道のりは険しくなるも1949年(昭和24)にほぼ現在の姿となる。

f:id:owari-nagoya55:20201112182052j:plain 稲荷社
境内右の杉並木、そこに朱塗りの稲荷鳥居が奥へと続きます。

f:id:owari-nagoya55:20201112182120j:plain 稲荷社本殿
緑に包まれて佇む稲荷社、朱が一際鮮やかに見える。

f:id:owari-nagoya55:20201112182141j:plain 祭神は宇迦之御魂神
「飛州三沢記」に「一宮水明神往古より七宮なり」と記され、その一宮に稲荷社が描かれていると云う。
以前は本社に合祀されていたが、1949年(昭和24)境内稲荷坂に社殿を造営し遷宮された、その後1994年(平成6)に改築の手が入れられた。

f:id:owari-nagoya55:20201112182204j:plain 稲荷社から神門方向の眺め。
手水舎から左手に小道があり玉垣沿いに社殿の北側に回り込めます。

f:id:owari-nagoya55:20201112182228j:plain 桧の杜の奥に小さな社が祀られています、その後方には大きな広葉樹が聳えています。

f:id:owari-nagoya55:20201112182249j:plain 社の詳細は分かりませんが、後方の大きな広葉樹は桂の木。
我家のシンボルツリーでもあるけれど、その成長の速さには驚きます、ここまで成長するかと思うと立派〃とは言ってられない、考えなければ。

f:id:owari-nagoya55:20201112182312j:plain

f:id:owari-nagoya55:20201112182329j:plain

 「チバカの桂」と呼ばれるそうだ。
樹齢は450年を超え、直径は7.2㍍の巨木、嘗て神社の標木だった・・・・・かもしれないといわれ、その昔に宝をうめた印とか、恋の標結とも伝わるそうです。

f:id:owari-nagoya55:20201112182419j:plain 現在のチバカの桂は二代目だそうです、針葉樹の濃い緑の中で空を覆うように枝を広げた鮮やかな緑は印象に残ります。
桂の木、こんなになっちゃうのか・・・・・

f:id:owari-nagoya55:20201112182442j:plain チバカの桂辺りに来ると漸く本殿の姿を見ることが出来る。
見えるとはいえ、年輪を重ねた杜に遮られ全貌は見られません。
巨木の杜に包まれ、梅花藻揺らめく清流を前に鎮座する水無神社。
飛騨の一之宮の威厳を漂わせている。


2020/9/27
飛驒一宮水無神
​住所 / 岐阜県高山市一之宮町5323

f:id:owari-nagoya55:20201112182503j:plain