6月21日、歩いて巡拝知多四国 第6回本開催に参加してきました。
第7回は秋からとなり、真夏の間のイベントはなくなります。

今回のルートは名鉄河和線阿久比駅からスタート、13・14・15・17・16番札所を回り阿久比駅に戻る全長約10kmのコースとなります。
気温を考慮し、夏場のイベントは見合わせているのでしょうが、6月ですら油断すると脱水症の危険を感じる気候となっており、水分・塩分の補給は必須です。
今回最初に訪れる13番札所安楽寺までは、駅から北東方向に3.1km、45分の移動になります。

写真は阿久比町板山前田から13番札所安楽寺の伽藍の眺め。
田圃の中を通り中央の大きなイチョウの樹を目指しますが、今回は右手に見えている森の中に鎮座する熊野神社を取り上げます。

強烈な陽射しの下ですが、田圃を吹き抜ける風は心地いいものです。
ここから板山公民館の脇を過ぎ、福山川を渡れば目的地です。


車道の先に福山川に架けられた熊野橋があり、この橋から先が社地になるようです。

熊野橋から参道・拝殿方向の眺め。
境内には古そうな燈籠が建てられています。

右手に「村社 熊野神社」の社号標(1908)や手水舎左に文政7年(1824)に寄進された燈籠など見られます。

参道左の手水舎、手水鉢は明治時代に寄進されたものです。

大正時代に寄進された燈籠の先に拝殿が建てられています。

のちに枳豆志庄(現在の武豊町一帯付近)の安喰が、三宝院に寄進された時、枳豆志の司役として派遣された石田某に従って当地に来て、紀州熊野三所権現を分祀したのが神社の始まりとされている。
角田忠行(1834-1918)は幕末の勤王志士の一人であり、島崎藤村の小説『夜明け前』では暮田正香として登場する人物である。」
因みに、阿久比町誌(1993)の年表によれば「建武3年(1336)、板山の熊野神社 紀伊熊野より勧請(板山郷士史)」とあった。
その他尾張名所図会、尾張志知多郡篇に目を通すが目立った記述は見られなかった。
西隣りの四国88ヶ所第13番札所安楽寺の創建が文禄2年(1593)なので、熊野神社の方が創建は先になります。

境内社殿、境内社全景。
拝殿右に神饌所があり、境内右に神楽殿もあります。
拝殿は入母屋平入の木造拝殿で、普段は戸板がはめ込まれ内部の様子は窺えません。
拝殿左には複数の境内社あります。

熊野神社の建物の配置は阿久比町誌資料編のレイアウトを参照してください。

神楽殿から神饌所と拝殿の眺め。

拝殿左の境内社全景。
ここにも文政5年(1822)寄進の燈籠が建てられています。

正面の三社。
左から多賀神社と八幡宮・秋葉神社・松尾神社・御嶽神社・御芳神社を合祀した神明造の社、板宮造の津島神社。
松尾神社は酒の神さまとして知られますが、古来よりこの地では杜氏が多く住まい、半田や亀崎、多治見にまで出稼ぎに行ったようで、その際にはこちらにお参りしてから各地に向かったそうです。
拝殿と神饌所の間の奥に酒造りの神の碑があるそうです。


左の境内社。
左から読み取りできなかった石標、祖尾(?)皇太神、板宮造の天駒駒大明神が祀られています。
天駒駒大明神は別名虫歯明神として崇敬されているそうです。

拝殿前から社頭方向の眺め。
そろそろ熊野神社を後にしなければ、右手の道からかみさんの待つ安楽寺に向かいます。

これは社地西側で見かけた、東南海地震で倒壊した鳥居の遺構。

「巨大地震の爪痕
昭和19年12月7日午前1時30分、突然の激しい揺れに思わず外に走り出す。
台地の振動は立っていられない程の激震、熊野灘を震源とする海洋型大地震「東南海地震」(マグニチュード8)である。
各地の震度は津、御前崎で震度6(烈震)、名古屋、尾鷲、浜松、岐阜、福井などが震度5というものでした。
ここに残された遺構は当時熊野神社に建てられていた鳥居で、地震により倒壊した一部で、その破壊力の凄まじさがうかがえるものです。
昼下がり時ということもあり境内で遊ぶ子供も多く、崩落する鳥居の下敷きとなり幼い命が失われた。
この地震による愛知県下の死者数は438名、負傷者は1148名を数え、住宅の全半壊は91戸、工場・学校46棟、その他54棟に上った。
翌、昭和20年1月3日には三河を震源とする内陸型直下地震(三河地震)(マグニチュード7.1)が発生、被害は13都道府県におよび、愛知県下の死者は2252名、負傷者は3181名、全壊住宅は5233戸に上った。
当時の日本は太平洋戦争の只中で、日本軍の報道管制から事実は報道される事無く、震災資料も極秘扱いとされ「隠された二大地震」であった。
天災は避けられなくとも、人災は避けることができる。
二つの地震は我々に幾つかの教訓を残してくれた、我々はこのことに耳を傾けなければならない。」
