前回掲載した41番札所 西方寺、そこから42番札所 瑞岸山 天龍寺に向かいます。
天龍寺へは約20分ほど、西方寺の東側の車道を5分ほど進み、その先の県道470号線(岩屋観音線)を北上します。
やがて集落が見えてくると道路脇に42番札所の案内板が立っているので、左に入れば目的地です。

県道脇の「四十二番2丁」の丁石が目印。

丁石から左に入ると正面に天龍寺のとんがり屋根が見えています。
右側に参拝者駐車場も用意されており、車での参拝も可能。

石柱門の先の境内全景。
右側には「厄難大師霊場 天龍寺」の石標が立てられています。
ここ42番札所天龍寺は札所番号が、男性の本厄42歳に通じるため、1・2月には厄除の参拝者が訪れ、参拝の後に、裏庭で椎の実を拾い、それを後厄までのお守りにする風習が伝わる。
太子堂に祀られる大師像は、「厄除大師」と呼ばれ厄年の方から崇敬されています。

境内に入ると右側に手水舎、この時期の境内は南天の実の赤が印象に残ります。

天龍寺伽藍全景。
寄棟瓦葺の高い屋根の本堂と左側の薬師堂が主なもので、本堂後方の森には椎の木らしき姿もある。
天龍寺について、ガイドブックや南知多三十三観音霊場の解説から以下のようになります。
『曹洞宗 瑞岸山 天龍寺
天龍寺は永禄九年(1566)、豊浜の正衆寺第二世 祖芳慧宗大和尚を開山に創建される。
開創当時は天台宗又は真言宗で、延寿山瑞岸寺と号していたが、江戸時代の寛政九年(1797)、九世大傳大和尚の時に堂宇を再興し、現在の瑞岸山天龍寺と改める。
当時は鎮守神や稲荷大明神をはじめ、近くの山林に愛宕権現、山王権現、更に若宮権現、若宮社が祀られ、これらは天龍寺の寺領だったが、明治維新の廃仏毀釈で山林など改減されました。
近くに弘法大師巡錫跡に生えるケヤキの根元から湧く水があり、古来、村人が「龍泉」と呼んだのがこの寺号のもととなったといわれますが、その湧水も昭和中期の災害で今は涸れています。
本尊の阿弥陀如来は舟形の後背に五智如来を現したお姿。
鎌倉時代の仏師・快慶の作と伝えられます。
寄棟瓦葺の高い屋根の本堂と左側の薬師堂が主なもので、本堂後方の森には椎の木らしき姿もある。
天龍寺について、ガイドブックや南知多三十三観音霊場の解説から以下のようになります。
『曹洞宗 瑞岸山 天龍寺
天龍寺は永禄九年(1566)、豊浜の正衆寺第二世 祖芳慧宗大和尚を開山に創建される。
開創当時は天台宗又は真言宗で、延寿山瑞岸寺と号していたが、江戸時代の寛政九年(1797)、九世大傳大和尚の時に堂宇を再興し、現在の瑞岸山天龍寺と改める。
当時は鎮守神や稲荷大明神をはじめ、近くの山林に愛宕権現、山王権現、更に若宮権現、若宮社が祀られ、これらは天龍寺の寺領だったが、明治維新の廃仏毀釈で山林など改減されました。
近くに弘法大師巡錫跡に生えるケヤキの根元から湧く水があり、古来、村人が「龍泉」と呼んだのがこの寺号のもととなったといわれますが、その湧水も昭和中期の災害で今は涸れています。
本尊の阿弥陀如来は舟形の後背に五智如来を現したお姿。
鎌倉時代の仏師・快慶の作と伝えられます。
天龍寺の「厄除大師」。
42番という当寺の番号が、男性の本厄42歳に通じるためで、1・2月には厄除の参拝者が訪れ、参拝の後に裏庭で椎の実を拾い、これを後厄までのお守りとする。
本尊 阿弥陀如来。
開基 不詳。
開山 祖芳慧宗大和尚。』
42番という当寺の番号が、男性の本厄42歳に通じるためで、1・2月には厄除の参拝者が訪れ、参拝の後に裏庭で椎の実を拾い、これを後厄までのお守りとする。
本尊 阿弥陀如来。
開基 不詳。
開山 祖芳慧宗大和尚。』

堂内に安置される本尊は阿弥陀如来、戸が閉じられ須弥壇の様子は窺えなかった。





世の中どこに向かっていくんだろうねぇ、お地蔵さん。

愛知県 知多四国巡礼 第10回: 42番札所 瑞岸山 天龍寺
宗派 / 浄土宗
創建 / 永正年間(1504~22)
開基 / 傳空松公上人
開山 / 傳空松公上人
本尊 / 阿弥陀如来
札所 / 知多四国41番札所、南知多三十三観音霊場23番札所
所在地 / 知多郡南知多町山海屋敷51
西方寺から天龍寺 / 徒歩約2.6km・35分、バス移動約10分(片道400円)
参拝日 / 2025/12/22
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