小牧山稲荷神社。
前回掲載した徳川宗睦源明公墓碑、そこから1・2分ほど大手道を上ると左側に小牧山稲荷神社の赤い奉納幟が見えてきます。

鎮座地は標高86㍍の小牧山南麗の大手道左に鎮座します。

小牧山稲荷神社社頭全景。
石の明神鳥居を構え、社頭右に「小牧山稲荷神社」社標と縁起が建てられています。
写真右上の朱の鳥居は吉五郎稲荷の社頭。

小牧山吉五郎 稲荷社緣記
そして小牧山には老狐吉五郎、又山中藪には藤九郎、お林山のお梅、下津山の助五郎、岩崎山の勘八、二子山の文治郎、下原山の銀九郎等々色々面白い名のついた狐がいた。
就中小牧山の吉五郎は尾北一圓の大親分格で、魅力妖力、霊力ともに勝れ、近在の里人もその神通力に心服す、さきに郷党の人人相計り、小牧山吉五郎稲荷社を創建しこれを祀る、事後霊験あらたかに崇敬するもの、更に多く参拝者日々絶えることなく今日に至る。」
とあります。
その昔、小牧山に住んでいた狐をお祀りする神社です。
信長が小牧城を築城したのが永禄6年(1563)と言われます。
縁起にあるような鷺や狐の楽園だったのは、城として整備される以前の小牧山と思えます。
この狐伝説は口伝だけでなく、江戸時代前期の寛永年間(1624-1644)、小牧に住んでいた尾張藩士の津田房勝が書いた「正事記」に吉五郎狐が登場します。
吉五郎狐は小牧山に住み、尾張北部一帯の狐の総大将として卓越した妖力を持っていたそうです。
特に娘に化けるのが吉五郎狐の得意技だったようで、ころころと男衆を誑かしていたようだ。
そんな吉五郎狐が五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄などにご利益があるとして祀られたのは意外に最近の事です。
就中小牧山の吉五郎は尾北一圓の大親分格で、魅力妖力、霊力ともに勝れ、近在の里人もその神通力に心服す、さきに郷党の人人相計り、小牧山吉五郎稲荷社を創建しこれを祀る、事後霊験あらたかに崇敬するもの、更に多く参拝者日々絶えることなく今日に至る。」
とあります。
その昔、小牧山に住んでいた狐をお祀りする神社です。

信長が小牧城を築城したのが永禄6年(1563)と言われます。
縁起にあるような鷺や狐の楽園だったのは、城として整備される以前の小牧山と思えます。
この狐伝説は口伝だけでなく、江戸時代前期の寛永年間(1624-1644)、小牧に住んでいた尾張藩士の津田房勝が書いた「正事記」に吉五郎狐が登場します。
吉五郎狐は小牧山に住み、尾張北部一帯の狐の総大将として卓越した妖力を持っていたそうです。
特に娘に化けるのが吉五郎狐の得意技だったようで、ころころと男衆を誑かしていたようだ。
そんな吉五郎狐が五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄などにご利益があるとして祀られたのは意外に最近の事です。
お稲荷様は明治時代、市街地の民家に家の守り神として祀られました。
昭和10年(1935)のある夜、婦人会役員三人の夢枕に狐が現れ、「小牧の守護神として小牧山に鎮座したい」と告げたことを契機として、当時の町長や住民らの協力により、翌年の昭和11年(1936)に小牧山のこの地に神社が建立されました。
昭和10年(1935)のある夜、婦人会役員三人の夢枕に狐が現れ、「小牧の守護神として小牧山に鎮座したい」と告げたことを契機として、当時の町長や住民らの協力により、翌年の昭和11年(1936)に小牧山のこの地に神社が建立されました。
祭礼は毎月21日、毎年4月21日には大祭が執り行われるそうです。
興味本位から「小牧市史本文編の俗言と巷談」に吉五郎狐が記されていないか調べてみるが、縁起に登場する狐の名の逸話はみられなかった。
興味本位から「小牧市史本文編の俗言と巷談」に吉五郎狐が記されていないか調べてみるが、縁起に登場する狐の名の逸話はみられなかった。

鳥居の先から奉納鳥居が立ち並び、その先に拝殿・本殿、社殿の左側には小牧山初里姫龍王神社が鎮座します。

鳥居は創建当時に奉納されたものでした。



切妻瓦葺の平入拝殿と妻入り幣殿が本殿の覆屋に続いています。

尾張徳川家から小牧町へ小牧山が寄付されたのが昭和5年(1930)のことなので、山中にこうして建てられたものの多くはこの年代以降になってくるのだろう。



詳細は良く分からなかったが、恐らくこちらも昭和に入ってから祀られたものと思われます。
小牧山稲荷神社
創建 / 昭和11年
祭神 / 吉五郎狐
祭礼 / 毎月21日、大祭 / 4月21日
小牧山初里姫龍王神社
創建 / 不明
祭神 / 不明