九番札所明徳寺から10番札所観音寺へは、山門から南に進み豆搗川を越えた先の丘陵地にあり、約1.6キロメートル、徒歩で22分ほどの距離に位置しています。

まずは10番札所観音寺の手前に鎮座する生路山 常照寺に参拝し、こちらで十番札所 観音寺の納経印を頂きます。
石柱の門の先には桜の古木があり、左手に伽藍がある。

門前の由緒は以下の通り。
「生路山 常照寺 曹洞宗
本尊 阿弥陀如来
享禄元年(1528)惟信忠公が開山と伝わるが、文明9年(1477)「乾坤院授戒会記録」に名が見える。
また、延徳3年(1491)「梅花無尽蔵」に常照庵薬樹の故事「尾張名所図会」にのっている。
明治9年(1876)乾坤院から独立した寺格となる。
昭和17年(1942)常照庵を常照寺と改称する。
東浦地域ふれあい場整備事業 平成十七年 生路区」
「梅花無尽蔵」は延徳3年(1491)に纏められたもので、現在の境内は樹々が少ない印象を受けます。
往古の境内は、冬でも葉が枯れなかった薬樹という葉が茂り、和尚はこの木を大切にしていたが、薬として役立つのならと自ら切り取ったという。
この事からも創建は更に遡ります。
薬樹の正体も調べてみましたが分からなかった。
東浦町誌の常照寺由緒では以下のように記されています。
「天文13年(1544)開創。
「昔天台宗、後に禅寺となり小川乾坤院に属す。
万年和尚と云う僧此の寺に来れりと云う。万里のことなるべし」尾州雑誌。」
とある。
尾州雑誌は尾張藩主徳川宗睦の命で領内を調査、寛政元年(1789)纏められたもの。
張州雑志 第2巻の常照寺記述は以下内容でした。
「生路山 常照庵
曹洞宗 緒川村乾坤院
本尊 阿弥陀
往古開基不詳
中興 惟信忠公 享録元年(1528)子三月」
とありました。

参道右は秋葉三尺大権現を祀る堂がある。
ここから東はなかなかの眺望で眼下に国道366号線、さらに先にはJR武豊線、衣浦港も眺められます。
この辺りの眺望の良さは戦国時代には戦略的にもいい立地だった事だろう。
近くの物しか見ない日常から離れ、たまには遠景を注視するのも必要な事です。

本堂方向の境内の眺め。
左に手水舎、本堂手前の建物は訪問時改修工事中で詳細は良く分かりません。
このイベントだけだったのか、普段からなのか不明ですが、この日は右手のテントで十番札所観音寺の納経印を頂きました。

本堂の額は・・・読めない。
堂前で手を合わせ堂内を一枚、正面には本尊の阿弥陀如来坐像、左の間には弘法大師が祀られているようです。
常照寺
宗派 / 曹洞宗
創建 / 享禄元年(1528)
本尊 / 阿弥陀如来
所在地 / 知多郡東浦町生路狭間105

常照寺から南に1分程に鎮座する十番札所 観音寺。
南側に石柱門があり、左手に「新四国第十番札所」の石標が建てられています。
十番札所 観音寺は無住職の寺のため、管理は常照寺で行われています。
こちらでお経を奉納し、納経印を常照寺で頂くことになります。

観音寺の由緒は寛文3年(1663)に観音堂として創建されたそうで、当時の一帯には田畑が広がり、寺の前の道を畑仕事で村人が往来し、その際にこちらで手を合わせる辻堂として信仰されていたようです。
そうした事もあり、塀のない観音堂だけのシンプルな伽藍で、身近な辻堂の面影があります。
本尊は聖観世音菩薩を祀る。
東浦町誌の観音寺由緒は以下。
「福衆山 観音寺
所在地 生路字間
本尊 聖観世音菩薩
開山
境内地 79坪
寺宝什物 毘沙門天など古仏像
由緒
天正元年(1573)創建
もと観音堂といい、昭和17年寺号(観音寺)、同27年山号(福衆山)を設ける、円通閣ともいう。
新四国十番札所」
寄棟瓦葺の小さな堂の外観は傷みを隠せず、住民の世代や生業も移り変わった現在、次世代の拠りどころとして繋いで行くのは大変な事だろう。
慈悲の目に 衆生見給う 観世音 詣る人々 生路迷はず
本尊 / 聖観世音菩薩
所在地 / 知多郡東浦町生路狭間1
明徳寺から常照寺・十番札所 観音寺 / 明徳寺から南へ1.6km・徒歩22分ほど
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