前回掲載した豊幡町の秋葉神社を後にして、庄内川に架かる新大正橋方向の西に向け25分ほど歩きます。

庄内川の高い堤沿いを歩いていく正面に森が見えてきます。
この森が今回の目的地の城屋敷 神明社の杜になります。
社頭へは道なりに左に進むと東参道、更に進むと正参道に続きます。

東参道。
当初はこちらが正参道と勘違いし境内に進みましたが、ここから先に進むと正参道の社頭に出ます。
東参道には石の神明鳥居と社号標が立てられ、脇参道とは思えない立派な構えです。
鳥居が寄進されたのは昭和2年(1927)でした。


脇参道の先には控え柱の付く蕃塀。
寄進年は昭和10年(1935)で、腰壁には一対の獅子、中央に馬が彫られ、連子窓の上には、水面の上に2匹の龍が彫られていました。

番塀から見る社殿全景。
社殿はほぼ南向きに、拝殿・幣殿・本殿と繋がっています。
拝殿の正面の南側に正参道があり、一旦正参道に回り込む事にしました。

社頭には正面の神明鳥居の他、左に「稲葉地城趾」の石標、右手に石碑が置かれ、複数の解説が立てられており、参道は正面の拝殿に続いています。

名古屋市教育委員会による「稲葉地城跡」解説。
「稲葉地城跡
稲葉地城は、このあたりにあり、築城年代は諸説あるため定かではない。
尾張志によれば、東西四十間(約73メートル)、南北五六間(約102メートル)の城館であった。
城主は津田豊後守(織田信長の叔父に当たる人)であり、玄蕃允、興三郎、小籐次と続いた。
興三郎は永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで、小籐次は天正十年(1582)の本能寺変で戦死した。
神明社の南西に位置する凌雲寺に、豊後守の法名を記した宝篋印塔がある。」


「稲葉地村古城主 津田豊後守城趾之石」解説。
「元文4年9月1日(1739)の大洪水で、庄内川の堤防が決壊し城跡も流出してしまった。
その後、天保4年(1833)に城跡の畑からこの石が出てきて、当初庭石として3年程使っていたが、その後神明社に移された。 と天保7年(1836)津田家の書類に記述されている。

敏元は信長の母の姉を室に迎えた(従って敏元は信長の伯父)。
その子玄蕃は信長と敵対する清須織田軍と稲葉地川(庄内川)で織田信光の援軍が到着するまで全力で戦ったとされる(萱津の戦い:稲葉地川の戦い)。
玄蕃は父豊後守の墓を凌雲寺に建立。
墓石には「当寺開基津田豊後守法名凌雲寺殿前豊州太守泰翁公大居士」と あり、裏面には「天文5年(1536年)10月28日没 津田玄蕃建立」と書かれている。
玄蕃の子与三郎は桶狭間の戦いで鷲津砦で戦死、その子小藤次は本能寺の変で戦死。
信長が幼少の頃、津田家に預けられ凌雲寺で学問したことからも、信長織田家と津田家は特別な間柄だったことがうかがわれる。」
信長の叔父は織田信光として思われがちですが、この「津田豊後守とは誰か」を読むと、織田敏定の末息子敏元を養子に迎えたとあり、信光ではないようです。
二枚の立て看板些細な違いで、どちらも信長の叔父に当たるにしても、明確に整理した方がありがたい。
こうした場合は地元の口伝を尊重します。
城について中村区岩塚宿散策コースでは以下の紹介されていました。
「祭神天照大御神。稲葉地城址の碑があります。
稲葉地城は織田信長の伯父津田豊後守の居城。
四代小藤次が京都本能寺の変(1582)で戦死し、以後廃城となったと伝えられます。」とある。
確かに、京都市中京区寺町の本能寺には、境内の戦没慰霊碑の前に立てられた戦没者一覧に津田小藤次の名は記されており、彼の死とともに城は絶えてしまったようです。

「稲葉地は、庄内川東岸の沖積地帯に位置する。
現在の神明社付近には、室町時代後期に、津田豊後守によって稲葉地城が築かれた。
「信長公記」によると、天文21年(1552)に尾張の統一をめざす織田信長が、那古野城から「稲葉地の川端」まで出陣し、ここで「いなばじ川」(庄内川)を渡って、清州城の坂井大膳らの軍勢に勝利したとある(萱津の戦い)。
弘化4年(1847)の村絵図によると、村の西側と北側に集落があり、上ノ切、下ノ切、西市場、東宿などの字名があった。
東側と南側には田畑が広がり、水路が縦横に流れる、農村風景が広がっていた。
昭和5年(1930)に土地区画整理事業が開始された。
その後は整然とした道路が整備され、住宅地として人口が増えていった。」

かつての田畑が広がる光景はもはや見る影もありません。
今も変わらないものといえば、西を流れる庄内川と、神社後方の庄内堤がその面影を残しています。

参道から拝殿方向の境内の眺め。
左に手水舎、境内社が連なり、右手に神馬像が安置されています。

手水舎。

こちらの龍は絶え間なく清水を注いでいました。

手水舎の先の境内社。
左から千我麻社、白山社、八幡社、倉稲魂社、鎮守社、十二所社、津島社の7社が整然と祀られています。
テント地の覆屋はあまり見覚えがなく、この手法もありだなと感じます。

傍らの境内社の解説は以下。
「城屋敷神明社七支社について
大正4年(1915)9月24日、それまで稲葉地村のあちこちに鎮座されていた無格社の津島社、十二所社、鎮守社、倉稲魂社、八幡社、千我麻社、白山社の七社を末社として境内に祀りました。
・津島社 御祭神:須佐之男命(すさのおのみこと):ヤマタノオロチを退治した草那藝之大刀を天照御大神に献上(三種の神器の刀)
・十二所社 御祭神:櫛御気之命(くしみけぬのみこと):須佐之男命と同一の祭神とされている。
・鎮守社 御祭神:鎮守神:特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神
・倉稲魂社 御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと):五穀豊穣・商売繁盛・健康祈願・金運上昇のご利益
・八幡社 御祭神:八幡神(やはたのかみ):出世開運・武運長久・良縁祈願・安産祈願などのご利益
・千代麻社 御祭神:乎止与命(おとよのみこと):知恵授け・商売繁盛のご利益
・白山社 御祭神:菊理姫命(くくりひめのみこと)他二神:縁結び・延命長寿・家内安全・厄除け・安産など沢山のご利益」
各社の歴史は不明ですが、城屋敷神明社(赤丸部分)を中心とした、かつての鎮座地が示されています。
大正9年頃の地図では、何れの社も稲葉地集落と田畑の境に祀られていたようにみえます。

拝殿全景。
創建時期は不明ですが、当社には正保4年(1647)が棟札が残るとされ、創建は更に遡る事になります。
小藤次が本能寺の変(1582)で戦死、後に城は廃城とあるので、この神社は稲葉地城と共にはじまったとも思えます。
尾張志(1752)によると、稲葉地村に神明三社と記されており、愛知県神社庁に同社の登録があり、その内容は以下のようなものでした。
「氏子地域 中村区:稲上町、城屋敷町、靖国町
例祭日 10月7日」と実に簡単なものでした。

拝殿前を守護する狛犬、寄進年は未確認です。


拝殿から幣殿の眺め、五七の桐が神紋のようです。

社殿全景。
全体はコンクリート造りで神明造の本殿の大棟には内削ぎの千木と6本の鰹木が載せられています。

本殿左の神統流棒術記念碑と碑文解説。

碑文の冒頭のみ抜粋。
「尾張国愛知郡稲葉地郷は中村の中にある。
昔織田家家臣の津田豊後守居城当時、その家臣は武芸の鍛錬に励んでいた、天文年中には住民も自衛のため手を初め、有事の際には忠勤できることを望み鍛錬していた。
この技を神統流棒の手として号するようになり、後世に継承されていった。」
webから神統流棒術を調べて見ましたが、現在も披露されているのかは不明でした。

拝殿から振り返り社頭を眺める。
開発や害虫被害から、身近であまり松を見なくなった気がしますが、境内には立派な黒松が多く見られ、保存樹に指定されています。
次の目的地は、社頭から南へ2~3分程の場所に鎮座する集慶山 凌雲寺です。